そいつは見慣れない若い男だった。オリーブ畑の外れにまるでシンボルのように立っている一際大きな、一番樹齢の行った木を見上げて佇んでいた。片手に小さな旅行鞄とコートを持っている。どうやら旅行者のようだ。こんな所で何をしているのか?
「そいつはうちで一番の年寄りなんだぜ。」
馬を寄せ、男がそう声を掛けた。だがそいつは相変わらず大きなオリーブの木を見 上げたまま、
「へえ、オリーブってこんなに大きくなるのか。知らなかったな。」
と言うと、何故か愛おし気にやや黄緑色がかった木肌を優しく撫でた。チョコレート色の長い髪が淡いブルーのシャツの肩に垂れている。緩いウエーヴの先端が気侭な方向に跳ねているその髪に、何だか見覚えがある気がした。
「あんた、見かけない人だね。オリーブの木が好きなのかい?」
ああ、と頷いてそいつが微笑んだ。
「思い出の木なんだよ。子供の頃のね。」
「子供の時にオリーブってのは珍しいな、この辺の者ならいざ知らず。あんたは都会の人みたいだが、どっから来たんだい?」
そいつがゆっくりと振り返る。と、柔らかい輪郭の中に、意志の強そうな太い眉と 強い光を宿した青い瞳が見えた。空の色をしたその瞳を目にした瞬間、閃くよう
に、
(知っている奴だ!)
と、まるで確信にも似た気持ちに囚われた。しかし、どこで?いつ?こいつは、誰 だ?
「ユートランドからだよ。」
くっきりとした発音で、ゆっくりとそう言う。
「ユートランドを知ってるかい?」
そう問われて、口から出た言葉は 「ああ。」 と言う肯定だった。ユートランド?いや、知っている。海辺の都市だ。高いビルが並んでいて、色んな人が沢山居て、ダ
ウンタウンには店があった...。
(何でユートランドなんて街の事を知っているんだ?俺はそこに住んでいたの か?)
風にオリーブの葉が波立った。濃い緑色と葉裏の灰白色がキラキラと交互に翻り、 見つめていると目眩がしそうだ。こいつは誰だ?何故、そんな街を知っている?俺
は...?
ひひーん、という愛馬の苛立たし気な嘶きに、ハッと我に返ると、いつの間にか、そいつがすぐ側に立っていた。真直ぐに見つめる青い瞳をじっと見つめ返したまま、手を差し伸べる。
「良かったら、うちへ来て話をしないか?」
「ああ、喜んで。」
少し微笑むと、そいつは差し出した手を掴んで、鳥のように身軽な動作で鞍の後ろに跨がった。
「じゃ、車が故障しちまって、歩いて丘を登って来たって訳かい?」
キッチンでコーヒーを煎れながら、リビングルームにそう声を掛けた。
「そうなんだ。あそこで会えて助かったよ。」
マグカップを両手に持ってリビングに行くと、大きな窓から差し込む陽の中に横向きのそいつが居た。年代物のキャビネットの上に飾られた写真立てをじっと見つめ
ている。
「俺の親父とお袋だよ。さっき旅行に出かけちまったがね。」
「親父さんとお袋さん?」
疑問符つきの言葉だった。おや、こいつは俺に本当の両親がいない事を知っている のか?
「と、言っても本当の親じゃねえんだ。実は俺は記憶喪失ってやつでね、自分の過去を忘れちまったのさ。この人達は俺の両親の事や、子供の頃の俺を知ってるそうでね、それでここへ帰って来た俺を息子同様に置いてくれてるんだ。」
「この若い人達と子供は?」
そいつの横に並んで、一緒に写真を覗き込んだ。幾つもの写真立てには、笑顔の家族が収まって居る。一番新しい写真立てには笑顔の自分が加わっていた。
「この家の本当の息子夫婦だけど、事故で亡くなったそうだ。孫のこいつが元気で 何よりだがね。」
すっかり俺に懐いたやんちゃな坊主。この子が忘れていったヌイグルミを届けるために、大慌ててで馬を飛ばしたのだ。間に合って良かった。両親の匂いが残るあれがないとぐずって眠らないのだから―。
「はっきりしないんだが、俺も子供の頃に親が居なくなって、すごく寂しかったって記憶があるんだ。だけど...。」
言葉が途切れた。だけど、誰かが、何かを...。はっ、としてそいつの横顔を見る。驚くほど真剣な表情で写真を凝視するそいつの瞳が、少し潤んでいるように見
えた。しかし、それは一瞬の事で、ふいにこちらを向くと、陽が差すように晴れ晴れと笑いながら言った。
「おまえはすごく幸せそうだな。安心したよ。」
ごく親し気な口調だった。だがそれに全く違和感がない。当然のように、互いをお まえと呼び合って来た旧友なのだろうか?こいつと俺は。じゃ、こいつは誰なんだ?
「あんたの名前は?」
そいつは質問には答えず、ちょっと微笑むと視線を落としてしまった。
「あ、こいつは失礼。俺はジョージって言うらしいんで、そう呼んでくれ。」
黙って頷いたそいつに何もかも話してみようと、ジョージは思った。そうしたら空白を埋める事が出来るかも知れない。不思議とそんな気がした。
「4年、いやもう5年前かな?最初に気がついた時は病院だった。身体中にひどい怪我をしててね、医者が言うには外傷性と、そのショックによる記憶喪失だって話
しなんだが、いったい何でそんな怪我をしたのかさえ俺自身は憶えちゃいねえんだ。」
ジョージは話し続けた。怪我が打撲傷と銃創だった事と特殊な訓練を受けた事があるらしいと判明したため、各国の軍部や特殊部隊に身元が照会されたが、該当する男は居なかった事。身元不明のため慣例に従って
「JOHN・DOE」 と呼ばれていたが、 ある時、突然、
「俺の名はジョンじゃねえ。ジョージだ、ジョージ・浅倉だ。」
と名乗った事。そして、その姓名から該当する人物が検索された結果、十数年前に死亡したはずのジュゼッペ・浅倉の息子ジョージである事を当局が突き止めたのだという事。長くギャラクターに支配されていた地域では、資料が改竄されたり抹消されたりしており、事実関係にも空白が生じていた。死亡とされていたジョージ・浅倉が生存していても、さほど不自然ではなかった訳で、ジョージは彼本人と認定された。かつて父ジュゼッペが別荘として所有していたこの農場と、かつてのジョージを知っているここの管理人の老夫妻が彼の家族になったのだという事...
等々。
「だがそれが本当の事、全部じゃねえんだ。」
と、ジョージはダークブロンドを掻き上げながら言った。そう、全部ではない。ジョージが誰か、という事は分かったが、では死亡したと届けられた8才以降、彼はどこでどう育ち、何をして暮らし、何故重傷を負って収容されたのか?
「それがまったく分からねえのさ。一つも憶えちゃいないんだ。」
苛立たし気に吐き捨てると、ジョージは席を立った。チョコレート色の髪をした旅行者は黙ったまま、じっと壁に掛けられた一枚の聖画を見つめていたが、やがて静かにこう言った。
「今が幸せなら、それでいいじゃないか?忘れちまえよ。忘れているんなら、思い出さない方がいい事だってあるぜ。」
いつか、どこかで聞いた言葉だった。息苦しくなるような緊迫感に満ちた場所だった。それから大きな炎が盛んに燃えていた。でも、そこがどこで、何故そんな記憶があるのか分からない。あの時も何かを思い出そうとして、それを思い出せずに苦しんでいたのではなかったか?太い眉が苦悩する形に寄せられ、ブルーグレイの瞳が答えを求めるかのようにそいつをじっと見つめる。
「...健?」
そう記憶の奥底から湧き出た名前を呼ぶ。
「健、おまえは健だろう?」
困ったような、怒ったような顔で、そいつがジョージの瞳を真直ぐに見て訊ね返した。
「健て、誰だ?健て、おまえの何なんだよ?」
「健は俺の...」
咄嗟に言いかけたが、答える事が出来なかった。こいつは健だ!確かに健だ、と直感的に感じても、では健が誰なのか、そして自分の何なのかをジョージには思い出す事が出来ない。それに健はどうして
「そうだ」 と言わないのか?ついと視線を外し、そいつが穏やかに話し始めた。
「さっき、オリーブの木に思い出があるって言ったろう?」
釈然とせぬまま、ああ、と相槌を打つ。
「9つの時にさ、俺はある人の家に引き取られたんだ。身体が悪かったお袋が入院 したんで、一人ぼっちになっちまったんでね。」
「親父さんは居なかったのか?」
口元に寂し気な笑みが浮かんで、消えた。
「親父とは4つの時に別れたきりだったんだ。で、その家には俺と同じ歳の男の子が居てさ。と、言ってもその人の息子じゃなくて、そいつは外国から引き取られた子でね。もう言葉も分かるはずなのに、あまり喋らないし、なかなか打ち解けてくれなかったんだよ。」
そうだ。健の親父さんは生きていて、その後...。あの時、健は「知らないで別れた方が幸せだった」と言ったっけ...。そんな断片的な事柄が少しづつ少しづつ、ジョージの中に甦ってくる。
「そいつはすごく寂しかったんだと思うよ。お袋が居た俺だって寂しかったんだもんな。だから俺はそいつと仲良くなりたかったんだ。それで何とか出来ないかと思ってさ、そいつの後を付けた事があるんだ。すぐ帰って来るんだが、そいつは時々ふっと居なくなる事があって...」
ジョージの網膜に緑と灰白色の細波が甦る。唯一、知っている木にすがって、故郷へ帰りたいと泣いたんだ。ユートランドの空も青い。だがそれは故郷の空ではなかった。
「オリーブだ!俺は故郷が懐かしくて、あそこに1本だけ生えていたオリーブの木の所へ行ってたんだ!そこへ行って、オリーブの木に...。そうしたら健、おま
えが来て...」
ジョージは突然、そう叫んだ。健がうん、と静かに頷いた。
「健、おまえが来て、ジョー、俺達は兄弟になろう、ここを故郷だと思おう、そうすればもう寂しい事はないよ、と言って...」
微笑んで、健がもう1度頷いた。ジョーは思い出した。あの日、俺は健のブルーの瞳にここの、この故郷の鮮やかな青空を見つけたんだ。そう告げた事はなかったかも知れない。だが、健は俺にとって故郷だったんだ。かけがえのない友であり、二人きりの兄弟だったんだ。
「ジョージ...ジョー、俺を思い出してくれたんだな?」
そう言って、健はジョーの肩に両手を置き、噛みしめるように言葉を続けた。
「おまえが元気で居てくれて、本当に嬉しいぜ、ジョー...」
愛して止まない故郷の空から、ふいに涙が溢れた。
はらはらと涙が健の頬を静かに濡らしていく。そうだ、健はよく泣く奴だった。激しい感情を自分でも処理しきれず、悔しいと言っては泣き、辛いと言っては泣いた。だが、いつの頃からか健は自分の為には涙を流さなくなった。そして最後に見た健の涙は、今同様、耐えに耐え、その果てに流した静かな涙ではなかったか?あれは濃い霧の中、そして...!
「健っ!」
突然、ジョーは叫んだ。
「ここが本部への入り口だ!」
記憶が瞬間的にあの時へと戻る。もし必死というものに色があるなら、それはジョーの瞳の色だったろう。それを真正面から受け止めると、健は決然として告げた。
「そうだ、ジョー。俺達はそこから侵入した。そして、おまえのお陰で地球は救わ れたんだ。」
「救われた?じゃ、ギャラクターは...」
健は再び困ったような、ちょっと怒ったような表情を見せた。しかし、すぐに優し く微笑むと、
「終わったんだ、ジョー。すべて、終わったんだ。だから俺もおまえもここにこう しているんじゃないか?だからおまえもこの島に帰って来たんだろう?」
と、ゆっくりと言い聞かせるようにそう言った。全てを思い出したら、ジョーは悩むかも知れない。また苦しむかも知れない。しかし、俺はどうしてもおまえにもう一度、会いたかったんだ。辛そうに目を伏せた健の肩を揺すって、ジョーが訊ね
た。
「じゃあの時におまえ達と別れて、俺は何で一人、あんな遠くの病院に居たんだ?」
「それは俺にも分からない。俺達はあの後、おまえを見失ってしまったんだ。だが...」
健は南部の報告と考察に記されていた事をジョーに話した。本部の外に居た人間(ギャラクターの隊員達と、そしてジョーだ)と思われる者のうち十数名が、しばらくして思いもかけない場所で発見された事。そして、彼等は一様に負傷し、また記憶を失っている者もいた事。致命傷と思われる程の重傷者が大半だったが、不思議と彼等は生存しており、その後の治療で完全に回復した者も多かった事、等々。南部は一推論として、こうした不可思議な現象は総裁X(その正体は依然として不明だが)が、宇宙へと飛び立って行った際に放出された未知のエネルギーに因るものではないか、と考察を締めくくっていた。もちろんこの島も真っ先に捜索対象となった事は言うまでもない。ジョーはそうした捜索が終了してからここへ戻って来たのだろう。加えて忍者隊のIDがその任務の性質上、秘守されてきた事も捜索の妨げになっていたのだろう。
「だから俺はおまえもどこかで生きているんじゃないかと、そして生きているなら いつか会えるんじゃないかと、思って...」
ダークブロンドを掻き上げて、ジョーが笑った。あの頃には見せた事のない、それは心からの輝くような笑顔だった。人間らしい美しい笑顔だった。ジョーは全てを思い出したんだろうか?その上で、この笑顔を俺に見せてくれたんだろうか?確信は持てないが、今は一切をジョーに委ねようと健は思った。平和は来た。そしてこの平和が続く限り、それぞれが手にした自分の幸せを手放す理由はどこにもないのだから。健はもう一度、壁の聖画を見遣った。それはピエタ、キリストを抱く哀しみの聖母...この犠牲を見よ...もうあんな思いはしたくない、させたくない。
「謎が解けて、すっきりしたぜ。健、よく探し当ててくれたなあ。俺はすっかり忘れちまってたのによ。で、博士は?みんなは元気なのか?」
「ああ、みんな元気だ。博士は相変わらず忙しい。話す事は沢山あるが、先にこれを...。」
と、健はポケットから例の破片を取り出し、ジョーの掌に乗せた。
「何だい、これは?」
目を丸くするジョーを見つめながら、健が明るく笑った。
「地球を救った、おまえの形見だ。」
『願いなさい。必ず与えられるから。
探しなさい。必ず見つかるから。
叩きなさい。必ず開かれるから。』
(マタイによる福音書7章7ー8節より)
―The End of " B " ―
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